トップページに戻ります




  
雑貨人生20数年の想い出、感じたこと、創作を愛する人へのエール といった感じのエッセイです。
雑貨屋KUMAのエッセイ 「雑貨想い出帖」 バックナンバー

   Vol,14〜Vol,59

(14以前は保存してありません)


第17回
「22歳、雑貨メーカーへの転身」
(2002年7月16日UP)

今回の話はあまり書きたくないのですよ。 なぜなら私のメーカーへの転身は大失敗だったのです。 したことが、ではなく、やり方がまずかったんですね。
しかしこれからメーカーやショップを始めたいという方にはきっと参考になると思い、ここに恥をさらすことにしました。

これまでにお話してきましたように、私はもともと雑貨屋さんの店員でした。
雑貨屋に入ったきっかけは、専門学校を中退したために当然仕送りがストップして、とにかく働かなくてはいけない状態になり、同じ働くなら女の子がたくさん来るところの方がいいという、まったく単純な理由で横浜のとある雑貨屋でアルバイトを始めたんですよ。 若い時というのはそんなもんです(自己弁護)
ですから初めから雑貨が好きだったわけではありませんでした。 その当時はまだ雑貨がそれほど一般的ではなかったですから、私は雑貨のことをよく知りませんでした。
最初のうちは正直に言ってあまり関心がありませんでしたし、「なんだかヘンなものがあるなぁ」程度の認識しかなかったですよ。

2、3ヶ月経って問屋を1件担当することになりました。 アルバイトの私はそんな責任を持たされるのが、はっきり言っていやだったんですが、何ごとも経験だと思い、在庫数を確認してオーダーしたり、ディスプレイをするようになったんです。
これがやってみたら結構自分に合っていて楽しかったんですね。 それで少しずつ興味が湧いてきて、いろいろなメーカーの商品を見るようになり、その中からおもしろい (いい) 商品を扱っているメーカーさんや問屋さんの担当を強引に任せてもらって、自分の裁量で商品を仕入し、ディスプレイにもこるようになりました。 ディスプレイにはずいぶん自腹を切りましたよ。
その商品に合った見せ方、売り方に工夫をすれば自然とよく売れるようになります。売れるとますますおもしろくなるし、取引先の営業さんとも親しくなり、徐々に雑貨にはまっていったんです。 わずか数ヶ月前には考えもしなかった、雑貨メーカーへの道を一歩踏み出したわけですね。

自慢するようで恐縮ですが、当時の私は業界で結構知られた存在だったんですよ。
アルバイトでありながら、休みの日にメーカーや問屋に出入りするほど熱心でしたし、実際にかなり売上を上げていましたから、私に担当になって欲しいと言われたりもしました。 向こうもそれなりに無理を聞いてくれたり、いろいろなアドバイスをしてくれたりしましたし、のちにこの人間関係が非常にプラスになりましたね。
とにかくあの当時はホントに元気で、雑貨が楽しくてしょうがなかったですね。 1ヶ月の休みのうち純粋な休みは1日か2日、あとは東京の雑貨屋を見て回ったり、先程書きましたようにメーカーに遊びに行ったりしていました。

そんな実績を認められてメーカーさんや問屋さんが、リニューアルで新規にオープンする駅ビルの雑貨屋さんの店長に推薦してくれたんですよ。
その雑貨屋にも同じメーカーや問屋がたくさん入っていましたから、みんなで会社にプッシュしてくれたんです。 「売るのがうまい人間がいますよ」ってね。 そんなわけで雑貨というものを知った、その10ヵ月後には私は店長になっていました。
私がプレッシャーを感じたと思いますか? とんでもない、私は会社に 「取引業者は自由に選ばせること。 その条件をのんでくれるのなら店長をやります」と言いました。 今考えると世間知らずのくせに生意気なガキですよね!  21歳のことです。

そうした条件を出したにもかかわらず、会社側は全店舗統括のバイヤーに8割を仕入れさせて、私には2割程度の枠しかくれませんでした。 会社としてはあたり前のことですが、私は腹がたちましたね。
しかし推薦してくれた営業さんのためにがんばろうと、少しずつ仕入れの枠をぶん取って、数ヵ月後には全部私が仕入れをするようになりました。
なぜそんな強引なことができたのか、それはそれなりの売上を上げたからにほかなりません。 会社というのはすべて数字で判断しますから、実際に毎月前年対比を大きく上回れば何も言えなくなるんですよ。

駅ビル内における坪単価の売上もいつもトップでした。 ディスプレイコンテストでも賞をいただきました。 12月のクリスマス商戦では、わずか10坪の店で1,000万円以上の売上を上げました。 これは会社始まって以来の快挙でしたし、駅ビルの営業部でもかなり話題になりましたよ。
すべては順調でした。 しかし私は人間として最低でした。 自惚れて天狗になっていたんです。 まったくお恥ずかしい・・・

その翌年、「会社の方針が気に入らない」と、半年もの間仕事をいいかげんにごまかして、店をほったらかして遊んでばかりいました。 みんな会社のせいにしてね。 営業の友人たちも見かねて、言いにくい意見を何度かしてくれましたよ。
しかし私はそれをまともに聞こうとはせず、「ショップなんかつまらない、作るほうがいいや」と安易な気持ちでメーカーに転身してしまったのです。 これがすべての誤りの始まりでしたね。

メーカーになるには当然商品が必要です。 問屋という業種はいずれなくなると考えていた私は、初めからすべてオリジナル商品でやっていくことにしました。 これもまわりからの 「絶対に無理だ。最初は引き物(仕入れた商品)も扱うのはしょうがない」 という意見を無視して突っ走ってしまったんです。 これがふたつ目の誤りでした。

幸い私の両親が独立に理解をしてくれて、資金を援助してくれることになり、さァ商品を作ろう!と思ったのですが、いけません。 何をどうやって作ったらいいのかまったくわからなかったんです。
そんなはずはない、ショップで働いていた時にはこういう物がいい、こうゆう物が欲しいといつも考えていたはずではないか。 しかしそれは目の前にある商品を、ただ批評していたに過ぎなかったんです。 つまり自分自身で作りたい物がわかっていなかったんですね。 商品を選ぶこと、見せること、売ることができるからといってメーカーになれるわけではない、そんな簡単なことがわかっていなかったんです。

それでも金を借りたからにはオリジナル商品を作るしかありません。 オリジナル商品といっても今のようにレジンで作ったわけではありません。 当時の私はレジンの存在すら知りませんでしたから。 結局作れる物は手っ取り早いプリント物です。 
今のように自分でパソコンでプリントできる時代ではありません。すべて工場生産です。 ここでまた問題に突き当たりました。

私はメーカーや問屋にはある程度精通していましたが、工場のことをまったく知らなかったんです。
いくら仲がよくてもさすがに商売敵になると工場は教えてくれません。 みんなそれぞれ苦労して開拓したわけですからね。
もうとにかく電話帳を見て、片っ端から電話をかけまくるしかありません。 営業の経験がなく、駆け引きができない私には非常に困難なことでした。 ですからやっと見つけた工場の言い値で作るしかなかったんです。 早く作らなければ、という焦りもありましたし。

そして出来上がってきた商品を見た瞬間、喜びを感じるどころか愕然としてしまいました。
「これはダメだ。こんな物が売れるわけがない・・・」 膨大な商品の山を前にして、私は絶望のために座り尽くしたことを覚えています。
しかし売らないわけにはいきません。 これまでのコネを頼ったり、飛び込みで頼んだりしておいてくれる店を1軒1軒開拓していきました。
でも作った当人が自信を持てない商品が売れるはずありません。 結局赤字覚悟で売りたたくより仕方がなく、こうして借りたお金はあっという間に消えてしまったんです。

その時どれくらい自分の短慮を悔やんだかしれません。 そして自分の思い上がっていた気持ちに初めて気が付いたんです。 ちょっと売るのがうまいというだけで自惚れて、それも営業の人たちの協力があったからこそなのに、すべてが自分の力のように思って。
世の中は一人では何もできないんだ、ということ。 商品を売るということはお客様からお金をいただくことで、お金をいただくということはその人の労働の代価をいただくことだ、という基本的でとても大切なことがようやく私にもわかりました。 思えば高い授業料でしたよ。

この経験を生かさなければならない。 そうでなければ両親にも、これまで付き合ってきた同業者にも顔向けができませんからね。
それで私は自分が本当は何を作りたいのか、そのためにはどうしたらいいのか、必死で考えました。 そして出た答えは 「工場で作るのでは思い通りの物は作れない。 すべて自分の手で作る」 という単純ですが、難しいものでした。
当時ハンドメイドの雑貨メーカーというのはなかったんですよ。 ですから「よしやろう!」という気持ちよりも 「果たしてそんなことができるのだろうか・・・」という不安の方がはるかに大きかったですね。

そんなときに出会ったのが レジンです。 「これしかない!」と、そう思いました。
もちろん初めから複雑な物が作れるわけがありませんから、キーホルダーやネックレス、バッチなんかから始めました。 今思うとひどいものを売っていましたよ。 その当時のひどい商品を買ってくださった方々のことを考えると、今でも冷や汗が出ます。 まったく申し訳がないです。
どんな素材でも同じですが、技術を身に付けるまでには時間がかかります。
「今に必ず腕をあげていい物を作るようになりますから、どうか目をつぶって我慢してください」と、伏し拝む気持ちであったことを告白します。

それもこれもすべては始めたときの思慮のたらなさが原因なんですから、私のメーカーへの転身は失敗であったと言うよりしょうがないのです。
私がこのバカな経験から得たこと、考えたことは、絶対にいきなりメーカーだけで食べていこうとしてはいけない、ということ。 つまり仕事をちゃんと持ちながら、あくまでも趣味の範囲で始める。 そして少しずつ技術を身に付けて、次に副業としてメーカーを始めること。 できれば副業として続けて、メーカーとして独立しないこと。 メーカーとして独立するのは副業が忙しくて生業ができなくなった場合のみです。

厳しいことを言うようですが、メーカー、作家だけで食べていくのは99%不可能なのです。 あくまでも趣味として、副業として物作りをしていただきたい、そう思います。 その方が心に余裕がありますから、焦らずいい物を作ることができるのですよ。
ネットショップはそうした趣味や副業として物作りをされるのには最適ですから、ぜひそこから始めてくださいね。

私は自分がバカであったために、しなくてもいい苦労をし、させなくてもいい苦労を両親にも家族にもさせてきました(それはまだ終わりではありませんが) 
人は完全に行き詰まると、本当に頭を抱えて転げまわるのだ、ということを身をもって知りました。 強いストレスのために極端に脳の血行が悪くなり、両目の焦点を合わせられなくなって、物を見ることができなくなったこともありました。 ノイローゼにもなりました。
どうかみなさんはそのようなことのないように、物作りを楽しんでくださいね。 楽しいと思える気持ちで作ってくださいね。 今回はちょっと長くなってしまいました (それだけ後悔の念が強いというわけですが) 最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。