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雑貨人生20数年の想い出、感じたこと、創作を愛する人へのエール といった感じのエッセイです。
雑貨屋KUMAのエッセイ 「雑貨想い出帖」 バックナンバー

   Vol,14〜Vol,59

(14以前は保存してありません)


第29回
「映画監督志望から雑貨屋さんへの転向」
(2003年1月16日UP)

今回もあまり触れたくない私の若き日のことなんですが、雑貨業界に入る前の学生時代にさかのぼってお話したいと思います。 遠い遠いはるか昔、20年以上前のことです。

私は子供の頃から絵を描いたり、物を作ったりするのが好きでした。 将来は絵描きになりたい、そう思ってましたね。 もちろん子供心に思うことですから、現実性はさほどありませんでしたが、ずっと好きな絵を描いていられたらいいなぁ〜と漠然と考えていました。
中学生になった時、ピカソの「ゲルニカ」を初めて見ました。 もちろん写真でですが、その時のショックは忘れられませんね。 「絵にはこんな力があるんだ!」そう思いましたよ。
それまでは絵というのは静物や風景など、人が見て「美しい」と感じるものを描くものと思っていましたから、絵によって自分の考えを表現するなどということは、まったく考えたこともありませんでした。 その時初めて自分の進むべき方向が見えたような気がしましたね。

中学1、2年の頃、私は世界の環境汚染や、動植物の生態系について非常に危機的な意識を持っていました。 それを絵で表現しようと思ったんですね。 しかしそれはあまりにも大きすぎる題材で、私の力量に負えるものではありませんでしたし、描いているうちに自分の画才に絶望したこともあり、絵描きになるという夢はあっさりと消えてしまいました。

絵描きを断念したのは2年のときですが、自分の技量もさることながら、絵や彫刻という芸術に限界を感じたことも事実です。
絵も彫刻もそれだけで自分の考えを表現するには限界があります。 つまり見る人によって感じることは違うわけですから、すべての人に同じ影響を与えることはできませんよね。 絵にしろ彫刻にしろ言葉を伴いませんから、それだけで自分の考えを見る人に伝えることは、ほとんど不可能なことだと考えたんです。 展示してある絵の横に立って解説をし続けるわけにはいきませんからね(笑) そして絵に替わる表現方法を探し始めました。

その頃の私は「手塚漫画」の魅力に惹きつけられ始めていたこともあり、今度は「漫画家志望」に変わりました。 手塚先生のように、漫画で自分の考えを表現しようと思ったんです。 漫画には「セリフ」という具体的な表現の仕方で、考えを伝えることができますからね。
ところが描いてみてわかったんですが、私シリアスなキャラクターが描けなかったんです、ギャグ漫画しか描けなかったんです(笑) で、漫画家への夢も1年程で露と消えました。

でも漫画は私に大金をもたらしてくれたんです! 「お笑いマンガ道場」という番組に応募した4コマ漫画で、アイディア賞という賞をいただき、現金1万円と10万円分の商品券を手に入れたんです。
中学3年生にはとてつもない大金ですよ。 その商品券で電気スタンドや時計など5千円くらいの買い物をし、おつりの現金で映画を観ました。
私の中学時代に「スターウォーズ」と「未知との遭遇」が公開され、漫画とは別に映画にもとても影響を受けていた時期でしたから、高校受験の終わった春休みにはほとんど毎日いろんな映画を観ましたね。
で、次は映画監督になろうと思ったわけですよ。 なんだか行き当たりばったりのようですが、自分としては表現方法を探していただけで、決して優柔不断に進路を考えていたんじゃないんですね。 かなり真剣でしたよ。 真剣に世界の将来を憂いていましたからね。 

高校の3年間は何もしませんでした。 高校へは一生付き合える友人を作るために行こうと考えていましたし、もう最初から映画の世界に進もうと決めていましたから、勉強する気も大学に進学する気もありませんでした。 ただただ毎日遊んでいましたね。
一応進学校でしたからずいぶん先生方ににらまれましたよ。 しかし映画の専門学校に行くと決めているということを話し、だから留年さえしなければいいんだと言いましたら、それからはほとんど無視されました。 進学校なんてそんなもんです。 ですから私は自由に遊べたわけですね。
ちなみにどうして進学校などにいったかといいますと、家から一番近い普通科の学校が、たまたま進学校だった、というだけです。
小学6年の時に大学へはいかないと決めていましたから、デザイン科の高校に進もうと思ったのですが、15歳くらいでは自分を客観的に見れていないだろう、という冷静な判断で(笑)普通科の高校にいくことにしたんです。 つまり高校の3年間で自分の進路を決めようと考えていたんです。

高校卒業後、映画の専門学校へすぐに進まないで、一年間アルバイトをしてお金を溜めてから入学することにしました。 まぁお金のこと以外にも理由はあったんですがね。
しかしこの一年のアルバイト期間に、私はとても大きな、そして様々な勉強をしましたね。 今現在でもその時の経験がとても役に立っています。 本当にいい勉強をしたと思いますね。

19歳の春に単身横浜に移り住みました。 当時私が入学した映画の専門学校が横浜にあったんですね。
その学院にはいろんな人がいましたよ。 自衛隊を辞めてきた人、OLを辞めてきた人、結婚もし、子供もいるのに会社を辞めて映画の道に転向した人、遊び好きな金持ちの息子、金がなくて料金が払えず、ガスを止められていた人などなど。
講師はほとんどが無名の人でした。 それはそうでしょうね。 売れてたらそんなことやってる暇ありませんからね。 だれも知らないような映画を20年も前に撮ったとか、テレビのシナリオを書いたとかそんな人がほとんどでした。 ところがそうした講師達は「今の映画界の隆盛は俺が作った」という態度で、実際にそう言って威張っていたおめでたい人もいましたよ。
私は日本の映画の現状を自分の目で見て、耳で聞いて心底うんざりし、がっかりし、何のために高い入学費を払ってこの学院に入ったんだろう、そう思いましたし、日本の映画界に将来のないことを痛感して、1年半で映画監督も断念したんです。

しかし行かなければよかったとは思いませんね、やはり勉強にはなりましたよ。
情けない講師とは対照的に、時々お目にかかる著名な方々にはそれなりの魅力と威厳、そして人間的な大きさを感じましたね。 それらの方々に出会えただけでもプラスになっていると思います。

一番印象に残っているのは映画評論家の淀川長治さんですね。 小さいおじいさんでした。
淀川さんは有名な方ですから、映画の解説というカリキュラムが組んであってもなかなか都合がつかず、1年間に1、2回しかおいでになりませんでした。
大きなホールで映画を観たあとで、ご自分の経験やいろんなエピソードを交えて、とても素敵な話をしてくださいました。 お帰りになるときには学生一人一人に 「あなたもがんばってくださいね。映画を愛してくださいね」と、丁寧に言葉をかけられていた姿が今もありありと浮かびます。

それから漫才の内海圭子 好江師匠もとても強く印象に残っています。
私がたまたま教員室に行ったら、そこのソファーに腰掛けていらっしゃいました。 私はお二人を見た瞬間に、その威厳といいますか、存在感といいますか、非常に圧迫を感じましたね。
何の用で行ったかは覚えていませんが、「もっと大きな声でしゃべらなきゃ監督にはなれないわよ」と、好江師匠にご注意をいただきました。 その時のにこやかなお顔は忘れられません。

余談ですがどうして映画の学校に、漫才の師匠をお招きしていたのかといいますと、この学院には演劇科もあり、役者志望の生徒にセリフの間を勉強させるため、漫才を取り入れていたんですね。 つまり漫才の掛け合いの間のとり方が、セリフのやりとりにとても役に立つというわけです。 本当かどうかは知らないけど。
生徒達は気の会うもの同士でコンビやグループを作り、中には度胸試しだと、当時あった「お笑いスター誕生」という、お笑いの登竜門的なテレビ番組に出場したりしていました。
私の1年先輩(歳は同じですが)にも番組に出場して見事に勝ち抜き、結局役者ではなく、お笑いでタレントになったコンビがありました。 ウッチャンナンチャンです。
私は別に興味もなかったですし、特に親しくしていたわけでもありませんでしたから、会場に応援に行ったりしませんでしたが、学生達はなんだか大騒ぎをしてました。
学院のロビーで業界の求人誌のようなものを見ながら、どこそこで結婚式の司会の営業があるとか言ってましたよ。 ちょっと反発心が起きて「このままお笑いでやっていくのか」と聞いてみたら、「役者になりたいけれど舞台俳優はイヤだし、といって映画やテレビの俳優になるにはどうしたらいいかわからないから、お笑いをきっかけにまずは業界に入って、やっているうちに役者の仕事がくるようになるかもしれないから」と、南原君は言っていました。 彼らは見事に自分たちの夢の一部を実現させたわけですね。

映画の専門学校で感じたことは、映画人が社会のことを何にも知らず、しかも取材もしないで映画やテレビドラマを撮って、人間が描けるはずがない、ということでした。 今でもそう思いますね。
ですから私は社会に出る決心をしたんです。 社会に出て世の中の仕組みを勉強し、人と接して様々な人生を知り、そしていずれは監督は無理でもシナリオを書きたいと考えていたんです。 実のことを言えばそれは今でも変わりません。 いつかはシナリオを書きたいですね。

物作りと自分を表現することの2つの夢を持って始まった私の人生は、こうしてひとつの道となり、現在の私があるのです。
人生の経験は決して無駄にはならないと思いますね。 ひとつの経験が新たな考えを生み、そして次の道へとつながっている、私はそう思っています。 経験を自分の糧にするか無駄にするかは、その人の考え方ひとつですからね。
この先自分がどうなっていくのかはまったくわかりません。 このまま物作りを続けていくのか、あるいは別の道に進み始めるのか、どうなるかはわかりませんが、私は決して後ろは振り返りません!(かっこいい)

若い方たちにとって人生が闇に思えることが多いと思います。 自分がどこにいて、どこに向かって進んでいるのか、果たしてこの道でいいんだろうか、そう不安になることもあると思います。私もそうでしたし、今でもそうです。 でもどんなつまらないことでも、どんなにつらいことでも自分にプラスにする気持ちさえあれば、道は必ずひとつにつながるものですよ。 なるようにしかならないんですから、あまり深く悩むのはやめましょうね。