Vol,14〜Vol,60
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第61回
「人はなぜ創作をするのだろう」
(2012年3月12日UP) |
タイトルを見ますと、なにやら哲学めいた感じがしますが、ごく単純に 「なんで物作りをするのかな?」 という疑問を感じたものですから、それについて私なりの考えを書いてみようと思ったまでのことですので、気楽にお付き合いください。
物を作る、創作をする、という行為は、趣味にかぎらず仕事でも多いですよね。 小さなネジを作るのもそうですし、お菓子や惣菜、豆腐、服、アクセサリーなどの身近なものから、ビルやタンカーといった巨大な物まで、これらはすべて物作りですし、創作行為ですよね。 ただ種類や大きさが違うだけで、人の手によって、人の創意工夫によって作られている、という点ではみな同じです。
「なぜ作るのか?」 と問われた場合、仕事であれば単純に 「それが仕事だから」 と言えますね。 では趣味の場合はどうでしょう。 「作るのが好きだから」
そうおっしゃるでしょうね。 私もそう答えています。
では 「なぜ物を作るのが好きなんですか?」 と聞かれたらどうでしょう? どう答えます? つきつめて考えてみると、「なぜと言われても・・・・好きだから」
と言うしかないんじゃないでしょうか?
この 「なぜ作るのが好きなのか、作りたいのか」 ということについて少し書いてみますね。 これはあくまでも私の考えであって、これが正解であるとか、普遍的な考えであるとかいうわけではありませんので、まぁ、さらっと読んでみてください。
これからの話をわかりやすくするために、時代をぐぐっとさかのぼって、大昔の石器時代とか、縄文時代とかをイメージしてみてください。 別に歴史の勉強をするわけではありませんから、マンガチックなそれぞれのイメージで結構ですよ。
今も昔も変わらないことと言えば、「食べる」 ということがまず挙げられますね。 食べなきゃ生きていけませんからね。 野生動物や魚を捕ったり、木の実や野草、キノコなどを採集したり、もちろん時代によっては穀物の栽培もしていたでしょう。
食材はそのまま食べられるものもありますが、多くのものは火を通す必要がありますね。 焼いたり、煮たり、蒸したりしていたであろうことは想像できます。
たとえば肉を焼く場合には、火の上につるしたり、棒に刺して火であぶったりすればいいですが、煮たり蒸したりするには、今で言うナベのような物が必要です。 いわゆる土器という物ですね。
先年、私が子ども会役員をしていた時、キャンプの企画運営を担当していたのですが、キャンプの時に、たき火で土器を焼いてみたらどうだろう? と考えて、「野焼き陶芸用の土」
というのを買いまして、まずはテストをしてみようと思い、指導してた中学生リーダーの定例会の時に、みんなでコネコネといろいろな物作って、1ヶ月後のかれらの研修キャンプで、炊飯のあとのかまどの火を活用して焼いてみたんですよ。
半分くらいは火にかけてすぐに割れてしまい、残りのものも加熱するうちに破裂してどんどん割れてしまいましたね。 割れなかったものもとうてい実用にはできないくらいの弱さで、土器といえども結構むずかしいもんだ、ということを知ったわけです。
精製された市販の粘土でもむずかしいんですから、昔の人はもっと大変だっただろうなぁ、とその時に思ったんですね。
昔の人たちは、最初は各家庭ごとに土器を作っていたんだと思うのですが、やっぱりうまいヘタがあったと思いますし、中には 「土器作り名人」 とも言うべき上手な人もいたと思うんですよ。 「○○さんの作る土器は丈夫だよね」
とか評判になったりしてね。
それでそういう人のところにみんな頼みにいったんじゃないかな、「うちのも作ってください」 とか言って。 もちろん物々交換でね。
もしそんなふうに大勢から作ってくださいと頼まれたとしたら、その人はどう思ったでしょう? 私はうれしかっただろうな、と思うんですね。 それでもっと丈夫なものを、もっといいものを作ろうと励みになったんじゃないかな。
そうした土器作り名人の中から、貝殻を細かく砕いて土に混ぜることで、さらに丈夫になることを発見する人が現れたり、模様に独自の工夫を施す人が現れたり、彩色をしてきれいな土器を作る人が現れたりしたんじゃないかなと思うのですよ。
もし土器作りが義務だったとしたら、そうした工夫はあまりしなかったと思うんですね。 「こんなもんでいいや」 って気持ちになったじゃないかな。
人からほめられたり、認められたりすることはだれだってうれしいですし、もっとほめられたい、もっと認められたいと思うものでしょう。 そういう気持ちが仕事に対する励みになり、創意工夫にもつながって、長い年月を積み重ねて技術や文化が向上し、進歩してきたと私は思っているのです。
それでは現代に戻ってきましょう。
私はそうした 「ほめられたい」 「認められたい」 という気持ちに、昔も今も変わりはないと思います。
やっぱり人はほめられたり、自分のしたことを認められたりしたらうれしいですし、励みにもなります。 これを心理学の方では 「自己肯定感の獲得」 「自己有用感の獲得」
とか言うのだそうですが、人にはこうした自分を肯定できる感覚、自分を役に立つ存在であると思える感覚がないと、前向きに生きることができないわけですね。
よく聞く話ですが、認知症を患っているお年寄りに、得意な仕事や役割をしてもらい、「おばあちゃんの煮物はやっぱりおいしいね!」 とか 「おじいちゃんは昔の唄をよく知ってるね!」
とかほめて、「また作ってよ」 「もっと聴かせてよ」 とそれを認めることで、症状が改善することがあるのも、人にとって自己肯定感や自己有用感がいかにプラスの刺激になるか、ということのあらわれだと思います。
また、少し古い話になりますが、東西冷戦が終結して東欧諸国との交流が戻った時、東欧諸国の産業や工業の技術水準が、西欧諸国にくらべてかなり低いことにおどろいたんですね。
東欧諸国は社会主義国でしたから、国民は国家の計画通り、指示どおりの仕事をしていればよく、そういう環境では励みも張り合いも少ないことから、創意工夫が生まれにくく、その結果として技術が進歩しにくかったんでしょう。
こうしたことからもわかるように、人にとって 「ほめられる」 「認められる」 ということは、人生そのものを左右するほど大きなことなんだと、私は考えています。
今度は、今の日本の現状を見てみましょう。
かつては生活に、生きていくために必要だから物が作られました。 しかし現代では、それがなくては生活ができない、生きていけない、という物以外の、なくても生活に困らない、生きていける、という物の方がはるかに多くなって、経済という歯車を回すために消費している、という観があります。
かく言う私の作る物がそのいい例ですね。 私が作るインテリア雑貨などなくても別に困りません。 現にある人から 「時計なら100円ショップでも買えるのに、それを考えるとあなたの作る時計は高いですね」
と言われたことがあります。
もうたしかにそのとおりで反論のしようもありませんね。 時計は時間を知るための道具で、基本的に時間がわかればそれでいい物なんです。 それなのにどうして自分は時計を作るんだろう? わざわざ高い物を作って、それになにか意味があるんだろうか? こうしたことを仕事と言って、それが世の中でなにか役に立っているんだろうか? という考えで頭がいっぱいになってしまい、子どもの頃から大好きだった物作りがイヤになってしまいました。 今から7〜8年くらい前のことです。
そんな精神状態で物を作ったって、いい物が作れるわけありませんよね。 なにを作っていいのか、なにが作りたいのかもわからなくなってしまい、ちょうど子ども会役員が忙しくなったこともあって、創作から遠ざかってしまったんですね。
自分の職業としての仕事と、子ども会役員としての仕事が半々の生活を7年続けました。
最初は子どもたちとのかかわりが苦手でしたが、しだいしだいに楽しくなっていって、子どもたちの成長にプラスとなるようなかかわり方がしたいと思うようになり、児童心理学やコーチング、カウンセリング学などの勉強をするようになりました。
その結果、子どもたちとのかかわり方が変わり、子どもたちからも慕われるようになって、それが子どもたちの成長に寄与したい、という気持ちをさらに強くしていきました。
大勢の子どもたちと接するうちに、自分に自信のない子、劣等感を持っている子がとても多いことに気づきました。 そういう子どもたちに自信を持たせたい、劣等感を取りのぞいてやりたい、と考えた時に、「ほめる」
「認める」 ということの大切さを痛感したわけです。
些細なことでもほめて認めることで、子どもたちは見違えるほど変わっていきました。 「ほめてもらえた」 「自分のしたことを認めてもらえた」 という、ただそれだけのことで、人は大きく変わることができるということを身をもって知りました。 これは私にとりまして、非常に大きな経験でしたね。
キャンプでがんばってノコギリで丸太を切った女の子が、切った木を持ち帰って、1年後に会った時に、まだそれを大切に飾っていることを知っておどろいたことがありました。
小さな体で一生懸命にロープを樹に結びつけて作った、自分だけのアスレチック遊具を、イベントが終わりの時間になっても、「これこわしたくないなぁ。 家に持って帰ってお母さんに見せたいなぁ」
と言って、いつまでもいつまでも見ている男の子がいました。
山で集めてきた植物のつるや枯れ枝などを使って、私がランプシェードを作るのを見ながら、一緒に同じように作ろうとして、なかなかうまくできなくて、何度もやり直したり、あきらめかけたりしながら、いびつで今にも壊れそうなシェードを作り、それを得意げな顔をして持って帰った女の子がいました。 また、その子が作るのを見ていて、できあがったシェードを見て、「いいなぁ」
と、うらやましそうに見ている子もいました。
子どもたちのうれしそうな顔、自信満々の得意そうな顔、不安そうな顔、ホッとした顔、喜んで大声ではしゃいでいる顔。
7年間子どもたちとかかわっているうちに、私も子どもたちと同じように自信を得て、変わっていくのを感じました。
そうなんだ。 物を作るということは、形さえできればいいということじゃないんだ。 機能があればいいということでもないんだ。 作った物、作られた物には想いがこもっている、そこに存在するには意味がある、物は気持ちを表すひとつの表現の形なんだ、そして作ることで人は自信を得ようとし、作ることで人とつながりを持とうとし、作ることで自分というものの存在を肯定しようとし、作ることで人からも自分を認めてもらい、自分の存在を肯定してもほしいんだ。 そんなことがようやく理解できたんですね。
遊んでいるうちに迷子になり、方々探し歩いているうちに気がついたら家の前に立っていた、そんな感じでした。
人はだれでも、この世に生きているだけで、世の中でちゃんと役に立っていて、一人ひとりが必要な存在なんだ、ということ。
たとえば、私が着ているシャツは自分で縫ったものではなく、生地は木綿ですから、元をたどればどこかの国のだれかが栽培した棉から作られているわけですよね。
棉を栽培する人がいて、収穫された棉を精製して綿を作る人がいて、綿から糸を紡ぐ人がいて、もちろん今は糸車などではなく機械で糸は作られるから、その機械を作る人もいる。 その機械をメンテナンスする人もいる。 その機械を作るための鉄や銅、プラスチック、ビニール素材などの原材料を採取し、精製し、加工する人たちもいる。
作られた糸を染める人たちがいて、染めるための染料を作る人たちがいる。 またその染料の原料を集めたり作ったりする人たちがいる。
染められた糸で生地を織る人がいて、織り機を作る人、そして織り機のメンテナンスをする人、織り機の原材料を作る人もいる。
シャツのデザインをする人もいて、デザインに合わせて型紙を作る人がいて、型紙に合わせて裁断する人がいて、裁断された布をミシンで縫う人がいる。 もちろんそれぞれに必要な道具や機械を作る人、メンテナンスをする人、原材料を作る人もいる。
縫製されたシャツにボタンをつける人がいる。 そのボタンの素材が貝であれば、その貝はどこかの国で、生活を助けるために子どもたちが拾い集めた貝かもしれません。 その貝を商う人がいて、貝でボタンを作る人がいる。
そのボタンがプラスチック製であれば、ボタン用のプラスチック素材を作る人がいて、ボタンを作るための機械を作る人、それをメンテナンスする人、その機械を作るための原材料を作る人もいる。
できあがったシャツをプレスする人がいて、プレスされたシャツを袋詰めする人もいる。
袋詰めされたシャツを、トラックや列車、船、飛行機などで運搬する人がいるし、運転をする人もいる。 それらの乗り物を作る人、メンテナンスをする人、原材料を集める人、原材料を精製する人、加工する人がいる。
また、それらの乗り物の運行を管理する人がいて、安全を確保する人がいて、必要な燃料を作る人がいる。
こうしてようやくこの国に運ばれてきたシャツを流通させる人がいる。 仕入れる人がいて、お店で働く人がいて、店頭に並べられて売られるわけですね。
たった一枚のシャツでさえ、何千、何万という人たちがそれぞれの仕事を担ってくれていることで、私がこのシャツを着ることができているんですね。
もちろんシャツに限らず、食べるものでも、日用品や家電でも、車やバイクでも、なにげに歩いている道や歩道でも、ガスや電気、水道でも、同じように直接はかかわることのない、見ることもない人たちが働いてくれているから、私はなんの支障もなく生活をすることができているわけです。
子どもたちと接して、子どもたちに自信を持たせようとかかわる中で、人はけっして一人ではないということ、一人では生きていくことができないということ、そして世の中というのは、人と人とのつながりで成り立っているということがわかったんですね。 それを子どもたちから逆に教えてもらった気がします。
自分が生きるためには、何千、何万、何十万人という人の存在が必要であり、自分自身もそうした大勢の一人であることに気がついたら、なんだか気持ちが軽くなって、またインテリア雑貨が作りたくなったんですよ。
自分が物を作ることも、目には見えないけれど、この世の中でどこかのだれかとつながっていて、その人の役に立つこともあるのなら、作ってもいいんだよね、そう思えるようになったんですよ。
今ならたとえ人から 「時計なんて100円ショップでも買えるのに、あなたの作る時計は高いですね」 と言われても、「そうですね」 と笑って言えます。 そして私はその作品について説明をするでしょう。
「この時計は私がデザインを考えて、自分で何ヶ月もかかって原形を作って、シリコンでその型を取って、それに樹脂を流し入れて固めた成型品を、さらに加工して、ひとつひとつ丁寧に仕上げているんです。 ですから手間がかかる分、どうしても値段が高くなってしまうんですよ。 でも100円ショップで売っている機能だけの時計よりも、飾った時にあなたの日常にうるおいを与えてくれますよ」
と。
それでも安い物でいい、と言う人は安い物を探してお求めになればいい、それだけのことです。
私は自分を認めてほしいから、想いをこめて物を作ります。 人から 「いい作品ですね」 とほめてもらいたいから、一生懸命に作ります。 私の存在を必要としてほしいから、これからも人と接していきます。 今ははっきりとそう言えます。
趣味の創作でも、仕事としての創作でも、いい物を作ってほめてもらいましょう。 そしてそれによって認めてもらいましょう。 だから人の作った物もほめてあげましょう。 そしてその人を認めてあげましょう。
これが、7年間の子ども会役員としての活動の中で、子どもたちから教えてもらったことであり、「人はなぜ物を作るのか?」 という疑問に対して得た、私なりの答えです。 |
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