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雑貨屋KUMAの田舎暮らしエッセイ 「東丹沢山ごよみ」 バックナンバー

  第1回
 「田舎暮らしをはじめて14年」

  第2回
 「私の住む集落を紹介しましょう」

  第3回
 「山歩きと日本の山林の現状」

  第4回
 「私の山の楽しみ方」

  第5回
 「山野草と山菜 春のよろこび」

  第6回
 「春から初夏の山」

  第7回
 「幻想的な梅雨時の山、そして夏へ」


  第8回
 「秋の山野草と山の生き物たち」



第2回
「私の住む集落を紹介しましょう」
(2012年1月19日UP)

この 「東丹沢 山ごよみ」 では、神奈川県西部の山の中腹にある歴史の古い集落で、2012年12月までの約15年間、家族とともに田舎暮らしを楽しんだ私の日常や、山で見られる美しい花や風景をご紹介しています。



私が借りている家の庭からの景色。
空気の澄んだ日には太平洋と伊豆大島が見えます。




大日堂山門
ここ神奈川県秦野市の歴史は古く、一番古い遺跡は約2万年くらい前だそうですから石器時代ですね。 縄文時代、弥生時代からそれ以降の遺跡が数々残っています。 つまり2000〜3000年くらい前から、朝鮮半島を経由して大陸から渡ってくるようになった渡来人たちに、エミシ(蝦夷)・エビスと呼ばれていた先住民族の時代からここには人が住んでいたわけですね。

この集落の中心となっているのは、集落の一番上(かみ)にある大日堂でしょうね。 奈良東大寺の大仏を作った行基という人が742年に建立したと伝えられているそうです。 ですから1270年前ですね。

この大日堂のうしろには現在大山(おおやま)と呼んでいる山がそびえていますから、山岳信仰の影響でこうした山の中腹に建てられたのでしょう。

大日堂の中には平安時代に作られた大日如来像が安置されています。


この集落に限らず、秦野市にはいたるところに古い石の遺跡が無数に残っています。 道祖神(どうそじん)、馬頭観音(ばとうかんのん)、大山への道しるべ、石垣、苔むしてなんだかよくわからなくなったものなどなど。

右の画像もなんのためのものだかよくわかりませんが、日本には行き倒れて死んだ人を供養するために作られた祠も多いですから、そうしたものなのかもしれませんね。


今でもこの集落では、小学生が自分たちで「道祖神」」と書いた紙を、各家々に配って歩いています。 もらった家庭ではその子どもたちにおこづかいやお菓子をあげて、そのお札を家の柱などに貼るのですよ。

どんど焼き、天神講などの古い習慣もまだかろうじて残っていますが、少子高齢、過疎化とともに消えようとしています。 まぁ、それは日本のどこでも同じことでしょう。



数少なくなった古い御師の家。
二階の雨戸を開けると縁側になっている。
さて、この集落の近世ですが、江戸時代に大山信仰がとても盛んになり、江戸や相模、伊豆などから講を組んで大勢の人がお参りにやってきました。 そうした講中の道案内をした御師(おし)の集落として発展した土地だそうです。
耕地面積の狭い土地ですから、昔は狩猟採集、山仕事もしたでしょうし、今で言う観光者相手の商売など、なにかしら収入を得る道を考える必要があったのでしょう。


古典落語にも「大山詣り」という話がありますが、行楽をかねた信心で、それはもう大変に盛んだったようです。
しかし戦後に小田急線が開通して、登山口が隣の街になるとすっかり寂れてしまって、今では過去の遺物が往時をしのばせるのみです。


大日堂から少し道を登りますと、大山への登山口があり、今でも常夜燈が残っています。

この常夜燈には「文化元甲子年 六月吉日」と刻んでありますから、甲子(きのね)の革令で年号が文化と改元されたことを祝って造られたのでしょうかね。 よくわかりません。
今は常夜燈の右を登って行きますが、以前は左を登って行ったそうで、山の中に埋もれた道しるべが残っている、という話を聞いたことがあります。

最近は信仰ではなく、レジャーとしての山登りの人たちが行き来して、土日には結構にぎわっています。
ここから大山の下社を経由して、山頂の上社へと登っていくわけですが、山登りをしない私は登ったことがありません。 なぜ山登りをしないかは次回書くことにしましょう。



こうした光景を見ると、いつもラピュタを連想する。
昔の登山道の方へ登って行きますと、かつての御師の集落跡があります。 関東大震災の時に山が崩れて川を堰き止め、そのあとの大雨で決壊し、大規模な土石流が発生して多くの家が流されたそうで、それ以降、御師の集落は今の場所に移ったのだそうです。

御師の集落跡には今でも石垣が残っています。 かつてはここに何軒もの御師の家が立ち並び、講中でにぎわったのでしょうね。

今ではそうした跡地にも木や竹が生い茂り、画像のように石垣の上にカエデの大木が育っていたりします。 無住になってから90年ちかく経ちます。 このカエデもかつては御師の家に生えていた庭木だったのかもしれませんね。


御師の集落跡を越えてさらに登って行きますと、右側に私の知人の家があり、さらにまた登って行きますと、キャンプ場があります。 東京少年少女なんとかかんとかのキャンプ場で、ボーイスカウト・ガールスカウトだと思いますが、私が越してきた頃はまだ毎年夏になると20人くらいの子どもたちがキャンプに来ていました。 でも6〜7年ほど前からまったく来なくなりました。

私も市の子ども会役員としてキャンプの企画運営を担当していましたからわかりますが、昨今のキャンプは形骸化してしまい、テントを張って野外炊事でカレーを作ればキャンプだ、という内容ばかりで子どもたちから相手にされなくなっているのです。

本来キャンプというのは人間的な成長の場であったわけですが、実施することが目的となって中身を失ってしまったのですね。
つまらないものには子どもたちは参加してきません。 育成者にはもっとがんばってほしいですね。
ちなみに私の実施していたキャンプは子どもたちにも保護者にも大人気でしたよ。

子どもの来ないキャンプ場なんて
実にさみしい光景・・・



火山活動のタイムカプセル。
登山道(本当は林道)の左側には渓流が流れています。 樹を伝って川岸に降りてみると、大きな岩がゴロゴロと転がっていて、よく見ると岩の中に石が取り込まれているのがわかります。 画像の岩の下の方ですね。

これは今から4万年だか5万年だか6万年だか前に、箱根火山が大噴火した時に飛んできた溶岩だそうです。 おにぎりの具のように、石が溶岩の中に入っちゃっているわけですね。
箱根から何十キロも離れたこんなところまで飛んできたんですから、その噴火の破壊力たるや恐ろしいもんです。

こんな岩が市内にはいっぱいあります。


さらに歩いていくと水源の地に出ます。 私の家の水道の水もここから来ているのですよ。 どんなにきれいな水でも法律上、塩素を入れなければいけないそうですから、ほんのちょっとは入っていますがほとんどミネラルウォーターです。 ですから1週間ほど置いておきますと藻が生えてきます。

おいしい水が普通に蛇口から出てくる、これはこの集落に引っ越してきてよかったことの上位にきますね。 冷たくて本当においしい水です。


ちなみに川の水も飲めます。 今の時期の川の水は少し酸味があります。 なぜだかわかりますか? 川に落ち葉が流れ込むからですね。 川の水は春先が一番おいしい。


ここから先は細い昔ながらの林道となっています。 大山詣りの人のにぎわいで財産を成した土地の人が、私財を投じて拓いた林道で、今では峠までの登山道として利用されています。
台風や集中豪雨でよく崩れていますから、登る方は気をつけてくださいね。

途中から右に行く道もあり、その先には髭僧(ひげそう)の滝があります。 昔、髭をはやした僧侶が打たれて修行をした滝、ということでその名がついているそうです。
こちらの道も倒木や崩落によって、今はかなり危ない道になっていますからお気をつけて。


髭僧の滝まで歩くのが、私にとって唯一と言っていいほど登山的な山歩きです。 山の山頂まで登ったり尾根伝いに縦走をされる方から見たら、登山口からちょっと入っただけでしょうけれど、山の楽しみ方というのはそれぞれにあるものですから。

昔はもっと危険な道だったでしょうね。 そういう道を登って行って滝に打たれるという修行をしていたわけですから、その徳が集落の人に語り継がれて滝の名前として残ったのでしょう。

今回は髭僧の滝までは行きませんでした。 それはまたの機会に。

右側は崖



こんな滝なら打たれても修行にならないな。
髭僧の滝までの行程の中ほどに、大きな砂防ダム(堰堤・えんてい)があります。 なんとも自然をバカにした光景ですね。
砂防ダムと言うくらいですから、以前は大雨で流れる土砂を防ぐ、という目的で造られたのですが、山に行ったことのある人ならだれでも知っているとおり、ダムの受け皿はすぐに土砂で埋まってしまうんです。 それどころか最初からまったく土砂をためる容積のないものもたくさん造られています。

そこで国は、川を階段状にして、土石流が発生した際の勢いを軽減するため、とその目的を変更して説明するようになりました。 役人というのは予算を守るためには知恵を働かせるものですね。

今でも山では毎年盛んに砂防ダムが造られています。 仕分け作業はいったいどうなったのでしょう?


右の画像を見ておわかりになるでしょ? こんな堰堤で土石流の勢いを軽減できるはずがないじゃないですか。
Yahoo!の地図などで山を見てみてください。 日本の河川にはこうした堰堤が無数に造られているのです。 それが自然や動植物の生態系をどのくらい壊しているか。
本音を言ってしまえば、仕事を作って経済を回すため、というのが本当の目的ですよね。

しかしこうしたことを声高に訴えるつもりは私にはありません。 それぞれの立場には、簡単に決められないむずかしい問題がたくさんあることがわかっていますし、私の子どもの頃の公害に汚染された日本にくらべればはるかによくなっています。 数百年というスパンで見るならば、きっとよくなっていくと信じていますから。


今、私たちが考えなければいけないことは、砂防ダムの建設うんむんではなく、現在植林されている膨大なスギやヒノキを、今後活用するのかどうするのか?ということなんです。
そうしたことに関しましては、これからぼちぼちと書いていこうと思っています。


渓流の近くにニホンジカの足跡がたくさん付いていました。 この足跡はまだ新しいから、昨晩水を飲みに来たシカのものでしょう。

この周辺の山にはたくさんの野生動物が生息しています。 ニホンジカのほかにもカモシカ、ツキノワグマ、タヌキ、アナグマ、イノシシ、ニホンザル、ハクビシン(外来動物)、イタチ、ノウサギ、リス、ムササビなどなど。
鳥類を含めればかなりの種類になるでしょうね。 こうした生き物たちの写真を撮るのは非常にむずかしいのですが、おいおいご紹介していきますね。



と、まぁ私の住んでいる集落と、その周辺の山というのはだいたいこんな感じのところです。 最近「里山」という言葉がよく使われるようになりましたが、そうした土地ですね。
いろいろと人間関係に気を使うこともありますが、住みやすいいいところですよ。



さて次回は真冬の山に分け入ってみましょう。
冬の里山に入る一般の人はあまりいないと思いますので
私が登山をしない理由とあわせて山の様子をご紹介しますね。